2015/04/02

(No.2325): 遠巒の廻廊(十二)


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「ワイマールさん!」

眠気眼で遅い朝のコーヒーを飲んでいたワイマールの家に
ヤン・ヨークビンセントが飛び込んできた。
ケント州カンタベリーにあるフェルディナンド・セジュウィッチバーグ博士
の自宅から北北東に113歩先にあった謎の東洋人の家へ行ったのが昨夜。
そこから帰ってきたのは、午前2時をまわっていたのであまり寝ていない。

「やぁ、おはよう、ヤン君、夕べは・・」

と言い始めるとヤン・ヨークビンセントが遮って捲し立てた。

「ワイマールさん!スガイが出て行きました!」
「え?スガイって?」
「忘れたんですか、あの東洋人ですよ」
「あーあ、そうかスガイだったね、出て行ったとは」
「えー、それがやっぱり怪しいですよ、今朝一番であの辺りの不動産屋を
当たってみたんですが、不動産屋は一軒しかなくて、すぐにわかったんですけど」
「あ、ちょっと待ってヤン君、まずは座ろうよ、コーヒーでも飲むかい」

ヤン・ヨークビンセントは促されて椅子に腰掛けた。

「その不動産屋によるとですね、今朝7時にスガイから電話があって
今から引き払うと言ったそうなんです、朝の7時ですよ、ワイマールさん」
「しかしね君、もともと引越すつもりだったんじゃないのかね、ほら、
家財道具も見えなかったっていうのもつまりそういうことじゃないのかな」
「それがそうじゃないんですよ、ワイマールさん」
「というと?」

ヤン・ヨークビンセントは淹れてもらったコーヒーを一口飲むと
少し落ち着いたのかいつもの口調に戻って言った。

「スガイが住み始めたのは先週の水曜からなんだそうです、水曜ですよ、
まだ僅か一週間ですよ、しかも電話の工事が明日だったそうです、
明日、工事なのに突然出て行ったっておかしな話じゃないですか?
昨日の夜、僕らが訪ねたから慌てて出て行ったとしか思えない」
「なんで僕らが訪ねたら慌てるんだい?」
「それは、わかりませんけど、何か探られたくない理由があるんですよ
やっぱり先生の失踪と何か関係があると思うんです!」
「あの家が気に入らなかったから出て行ったんじゃないのかな、
そうでなかったら、んー毎晩お化けが出て困るとか、あの家も中世からの
古い建物だろうしねぇ」

ヤン・ヨークビンセントはワイマールのジョークを無視してさらに続けた。

「もうひとつあるんです、先生が失踪した頃、あの家に住んでた人物」
「ほー、何かわかったのかい、でもよく不動産屋がそんなことまで
教えてくれたな」
「借家を探してるって伝えて、でも同居する彼女が病的な潔癖症で、
だから前の住人の様子などもできれば教えてほしいって言ったんですよ」
「へー、そんな理由でも教えてくれるんだ」
「いや、そんなことよりも、聞いてください、」

ヤン・ヨークビンセントはワイマールを正面に見据えて言った。

「先生が失踪した時にあの家に住んでいたのは、なんとスガイでしたよ」

ワイマールがその意味を呑み込めず目をパチクリしていると
ヤン・ヨークビンセントが続けた。

「あいつ、この2カ月の間に2回もあの家を借りてるんです」







「ヤン君、君の行動力には驚くよ」

ヤン・ヨークビンセントとワイマールはスガイの家の前に立っている。
確かに今朝早くにスガイは立ち退いたという。
部屋の中を見せて欲しいとお願いし少しのチップを払い不動産屋から
家の鍵を借りて来たのだ。


二人は家の中に入った。昨晩見た通りの玄関を抜け、廊下を挟んで
居間やキッチンが続く。この建物自体は17世紀からあると聞いていたが
内装は大部分が改装され近代的である。

「引越したあとだけど、人が生活していた痕跡はないですよね」
「まぁ一週間かそこらじゃ、こんなもんじゃないかね」

二人は全ての部屋の中を見て回った。

「これで部屋は全部見たと思うんだけど特に不審な点はないね」
「そうですね、バスルームやトイレも、ですね」
「家の中に何か手掛かりがあるかもしれないと思った発想は
鋭いんだけど、そううまくはいかないよヤン君」
「そうですね、スガイもそんなものを残すとは思えませんし」

と言い終える間もなく、バチッという音が奥の寝室から響いた。
その音に二人は飛び上がった。

「な、なんです、いまの音」
「びっくりしたな、何の音だ」
「寝室からでしたよね」
「うん、たぶん」
「ラップ現象?」
「や、やめろよ、そうでなくてもなんか出そうな古い家なんだから」

二人は及び腰になりながらそろそろと奥の寝室に向かった。
寝室の扉の前まで来た時今度はバチッ、バチッと間を置かずに2回鳴った。
先ほどよりも大きな音だ。

「わぎゃ」

ワイマールは腰が抜けてその場にへたり込んだ。
ヤン・ヨークビンセントも思わ後ずさったが、それでも勇気を振り絞って扉を
勢いよく開けた。

扉を開けると部屋の中には彼らが嗅いだことのない花の香りが立ち込めていた。
先ほど寝室を見て回った時には、もちろん匂いなどなかった。
ヤン・ヨークビンセントは鼻をひくひくさせながら部屋の中を凝視した。

部屋の奥の角のところに一人の男が座っている。
それを見たヤン・ヨークビンセントは凍りついた。
へたり込みながら、開いた扉の向こうを見ていたワイマールも男の存在に
気付いて、再び呻き声を上げた。
あれほど丹念に家の中を調べたのだ。それで当然手掛かりすら何も
見つからなかった。まして人が居るはずがない。
窓も内側から鍵が掛かっているし、玄関から入ったなら二人の前を
通らなければ寝室には行けない理屈だ。
つまり男は忽然と部屋の中に現れたのだ。

その男の横には大きなスーツケースが開いて置かれている。
開いたスーツケースの内側は機械の操作パネルのような装置が見える。
LEDのような光源もいくつか認められる。パネルは全体的に黒い艶のある
滑らかな表面だ。


その男は振り向いてワイマールとヤン・ヨークビンセントを見た。

「この匂いか?、キンメツゲの香りだ」

そう言った男の顔は菅井だった。





(続く)



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