2015/08/23

(No.2375): 32年前の邂逅


1982年の1月か2月頃だったと思う。筆者が大学1年の時。
小学時代の友人と吉祥寺パルコの中をぷらぷらしていたら、その友人の高校時代の同級生という青年とばったり会った。

友人とその人は高校卒業以来だなーなどと挨拶を交わしていたのだが、友人が思い出したように、「あ、そうそう、こいつも(筆者のこと)音楽やってんだよ、なんか多重録音してるやつ」と筆者を紹介したのである。その人は「えー!そうなんですか!」と驚いた様子だった。それには筆者も驚いて「え?そちらも多重録音やってるんですか!」と声高になった。

当時は「宅録」などという言葉はなく、サンレコも創刊してまだ1年足らずの頃、多重録音を家でやっている輩など皆無だったのだ。
しかも、しかもである、お互いYMO、Kraftwerkが大好きで、やってる音楽はテクノだったのだ。
「ワイエムオー!、ビージーエム!」「ワイエムオー!、テクノデリック!」と吉祥寺パルコ内で叫び合った。

何故なら当時、テクノ音楽をやっている人間など筆者の周りには一人としていなかったからだ。彼と話をしてみると、完全100%筆者と音楽嗜好が合致したのだ。今まで、YMO/BGMについて他人と意見交換や感想などを言い合ったことなどなかったから、すぐさま意気投合した。それがTくんと知り合った切掛けだった。
Tくんとはそれから共同制作したりユニットを組んでライブやったりで、ある時は密接になったり、しばらく離れたり、そんな関係が約10年間ほど続いた。


1983年、Tくんの一作目の作品集(ミニアルバム的な)ができたということで30分のカセットテープをもらった。Tくんは一人で「近代案出」というバンド名義で活動していた。その頃筆者は「HORMONE」というユニットを別の男と組んでいて、同じく30分テープのカセットで作品を既に発表していた。

どれどれどんな曲なんだろうかとTくんのテープを聴いた。そのあまりの完成度の高さに度肝を抜いた。同時に自分の作品の稚拙さを叩きつけられたのだった。言ってみれば、幼稚園児と大学生ほどの違いはあった。(実際大学生だったけど。だから筆者は幼稚園児ということね)
当時筆者が作っていた曲を今聞くと「ごっこ」の 域を出ていない。つまり自己満足だけの音なのだ。それに比べてTくんの楽曲は他者を意識した作り込みで、筆者の曲と比べるのも失礼なくらいの次元の違う作品だった。

ちなみに当時Tくんの機材はTASCAM244(4TR カセットMTR)、KORG MONOPOLY、TR-808であった。
当時の筆者はTASCAM234(4TR カセットMTR)、Roland SH101、BossDR55だった。Tくんの方が高価な機材を使っているからなどという陳腐な話ではなく、音楽に対する姿勢、発想やアイデア、音楽的知識、アートディレクション 全てにおいて三つも四つも筆者の上を行っていたのである。
だいたいこのテープのA面の3曲目が坂本龍一氏のFM番組で取り上げられるほどなのだ。


「近代案出」は1984年、「Zelefantankel Danz」というカセットを発表した。これがまた、ファーストを上回る出来だった。
前作が音響的あるいは前衛的なアプローチを主軸としていたのに対し、次作ではボーカル曲も増やし曲調も暗めなポップ色のテクノという方向だった。”ゼレファンタンケルダンス”というのも実際このアルバムで知ったし、そのアルバムタイトルの曲がまたダークな歌モノで痺れまくる格好良さ。
また筆者の作った「耳鳴り」という曲をカバーしてくれたりもしたが、このTくんバージョンの方が全然格好良いのだ。(作者がいうのだから間違いない)

「近代案出」は結局この二つのアルバムしか出さずその後自然消滅してしまうのだが、この二つのアルバムは筆者にとって、YMO/BGM、テクノデリックとともに、筆者のテクノ音楽のバイブルとなった。




2005年くらいに、「近代案出」の作品をカセットテープからMDに録音していたのだが、MDもいつ聴けなくなるかわからないので、昨日HDDへ録音保存した。
久しぶりに全作品を聴いたが、32年後2015年に聴いてもなんの古臭さも感じず、楽曲の格好よさに改めて驚いた次第。

Tくんは大学卒業後、某シンセメーカーK社に入社するが、その数年後某IT機器メーカーへ転職、現在はその関連外資系会社の社長である。




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