2014/07/03

(No.2211): 遠巒の廻廊(八)


「目ぇ醒めたかい」

着物を着た男はそういうと障子を開けながら
うす暗いこの部屋へ入ってきた。
私は布団から上半身を起こしているが
まだ夢うつつでぼうとしている。

隣の部屋からの明かりで僅かに逆光ではあるが
この男の風体として先ず目についたのが髪型だ。
剃髪ではないが髷を結っている。
三十歳前後と思われる。目の細い、
無精ひげが目立ち、唇の薄い、精悍な面構えだ。
袷がぞんざいになって胸板の下からさらしを
巻いているのが見える。

「ちいと暗れぇだろうが、すぐに馴れるよ」

言いながら男は入ってきた障子とは反対側の
表の庭へ出る障子を開けた。
もう殆ど陽は沈んでおり明るさは仄かだ。
どこかで魚を焼いているのだろう香ばしい
匂いがそよ風に乗ってきた。

「そこに盆が伏せてあんだろ、ちっとそれぁ
取ってくんねぇか」

その男が指す部屋の隅を見ると薄い皿の上に
お盆が伏せてある。
私は布団から出てその盆を男の前へ置いた。

今度は男は奥の部屋から火のついた小さな
蝋燭を持ってきた。そしてその盆を返して
その上にある細針に蝋燭を挿した。
蝋燭の明かりが意外にも眩しく感じられる。

「すまねぇが、今夜はこれで辛抱してくんな」

「あの・・えっと」

「わかってるよ、大丈夫(でぇじょうぶ)、
心配(しんぺい)はいらねぇよ。
着るものぉここへ置いてくぜ。
その格好だといろいろ都合がわりぃんだ」

「こ、ここはどこですか、あなたは、」

「まぁおいおいわかるこった、今夜は飯でも
喰って寝ちまってくれ」

「いや、でも・・」

と言ったきり次の言葉が出なかった。
この僅かの間の出来事に頭の中が
追いついていないのだ。

「あとで飯ぃ持ってきてやっから、
それに着替えておいてくんな」

そう言って出て行こうとする男を呼びとめた。

「ちょ、ちょっとあんた」

「なんでぇ?」

「もう何がなんだかわかんないんで。
ちょっと、説明くらいしてくださいよ」

「話しが聞きてぇってんだろ、
もちっとしてからのほうがいいぜ」

「そんな、、
菅井さんはどこいったんです。
ここは菅井さんの家じゃないんですか
わたしはなんで布団で寝てたんです
ここはどこなんですか、帰ります、もう
帰りますよ私は、冗談じゃない
仕事も置いてきちゃったんだし
いい加減にしてください
わざと蝋燭なんか待ちだして
ふざけるのもたいがいにしてくれ
ふざけんな、帰る!」

蟠っていた気持ちが一気に噴き出してしまった。
少々言いすぎたかと思っていると意外にも
男は笑っている。

「おめぇ帰(け)ぇるって、いってぇどこへ帰ぇる
つもりなんでぇ」

「どこへって自分の家だ」

「おめぇの家ぁ、ここだよ」

「なんでここが俺の家なんだよ、こんなとこ
はじめて来た」

「そりゃそうだろう、今日からここがおめぇの
家なんだよ」

「ふざけんな、帰る」

私は立ち上がって男の横から隣の部屋に入った。
そこは広い板の間で二階への階段も見える。
床も柱も天井も使い込まれ黒々としている。
古い屋敷のようだ。
大きな古民家といったところか。
他にも障子で仕切られた部屋がいくつか
あるようだ。
奥が土間になっていて表に出られる戸板が
見える。そこを目指して走った。

土間にあった雪駄をつっかけざま戸板を開けて
外に出た。そこは坪庭になっていた。
置き石と奇麗に刈り込まれたキンメツゲが
風に揺れている。
つと見るとこの家の周りは板塀で囲まれている
ようで、表に出るにはその板塀を
抜けなければならない。
黒く年季の入ったしかし頑丈そうな板塀だ。
置き石の先を歩くとその板塀の扉がある。
ここはこの家の勝手口のようだ。
躊躇なくその扉を開けて表へ出た。


出たのは往来であるが、舗装されておらず
道幅はかなり広い。そしてそこはまるで
中山道木曽路の奈良井宿のような佇まいの
家並みが道に沿って続いている。
もう陽が沈んでいるというのに電気の灯りは
一つもない。家々には提灯の明かりが美しい。

しかし、もっとも驚いたのは道行く人々だ。
まるで時代劇だ。皆着物を着ている。
髪型が変だ。髷姿。額を剃っている人もいる。
意外と人通りが多い。

右から歩いて来た絣の着物のおじさんが
私を見て驚いている。
「ははぁこりゃ珍しいお召し物ですな」


不意にぐいと肩を掴まれ、板塀の中へ
引っ張られた。先ほどの男だった。

「その格好で表ぇ出ちゃぁなんねぇ。
たいがいのことはおめぇの好きでいいが
いくつか決まりてぇやつがある。
そのあたりのことも明日話してやるから
今夜は部屋ぁ戻ってくれ」

塀の中に戻されると男が板塀の扉を閉め
閂を掛けた。
さほど高くはない板塀なので見上げれば
隣の家並みは見える。
やはり電柱も電線のたぐいも見当たらない。

「わかったろ、おめぇの帰(け)ぇるとこぁ
もうねぇんだよ、ここしか」

「おい、ここは一体どこなんだ」

私は改めてしかし静かに男に訪ねた。

「おめぇの知ってる言葉で言やぁ
ここはトウキョウよ」
「東京?うそつけこんな場所はない」
「おめぇのいた時代(じでぇ)からだと、
百八十年も前の東京よ。まぁ今ぁ江戸てぇ
呼ばわってるがな。ここは江戸冬木町辻前よ」

冬木町という名を聞いて
男の言葉は嘘ではないかもしれない
という漠然とした確信を持った。
膝の力が抜けて行くのを感じながら。


(続く)


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